人生賭けて、身を投じて行動する現場では、市民としての純粋な志が鮮明に一本通っている。

東京で間接情報を聞くだけだと、普天間基地の移転先の場所がどこなのかの表面的な部分だけしか目がいかないが、実際に現場に来て、現場の人と出会い、その出会った方の人生を通して、人間にとって大切なものとは何であるのか、その問題の本質が浮き彫りとなる。

長年、座り込みを続けてこられた女性行動家との出会い。
背筋がピンと伸び、凛とした透明で揺るがない、基軸が貫かれ、人間にとって何より大切なものを見据えている方だった。

「座り込みをずっとしていると、いろいろ考えるの・・」
なぜ、座り込みをするのか?
なぜ、基地が必要なのか?
なぜ、沖縄なのか?
なぜ、日米同盟なのか?
なぜ、戦争はなくならないのか?

彼女が牧師の主人と共に沖縄に来たのは、沖縄返還前から。
彼女の原点はベトナム戦争。
そのころ、ここの飛行場から米兵の乗った飛行機がベトナムへ飛び立ち、
戦争をして、戻って来た。
日本が戦争に加担していることに憤りを感じたという。

また、環境アセスメント法に違反する那覇防衛施設局の辺野古ボーリング調査に対して命がけの阻止行動。多くの住民が立ち上がり、体を張ってカヌーで乗り出した。また、海上に立てた櫓の上での座り込みでも、櫓から海に振り落とされる命がけの衝突があった。

「信仰がなくては闘い続けるのは難しい」
毎日座り込みを続ける仲間の7割はクリスチャンとのことだった。

「現場にいる敵が本当の敵ではない」
米国海兵隊の一兵士。米国は格差社会。大学に行けない人に軍隊に行けば大学にいけるぞ、との言葉がきっかけで軍隊を志願する。軍隊に入ってからは過酷な訓練で感性を剥ぎ取られて殺人マシーンと化していく。任務を果たして、本国に戻って、大学に入る。しかし、上からの命令に絶対服従を叩き込まれていて、学ぶことができない状態になっているという。
現場にいる敵とは時にわかりあえる。現場にいる敵が本当の敵ではない。
本当の敵はその奥にある権力構造だ。

命をかけて行動する現場。
形ある大きな力にも揺るがない、市民性を貫く、尊い光を感じさせていただいた。
明治維新、背後にあった私塾の存在。
「志を同じくする仲間と熱く語り合いたい!」
維新の志士たちは、同志を探し回って、同志がどこそこにいるとなれば、
“脱藩行為”をしてでも、同志に会いに行った。会えば、夜を徹して熱く語り合った。 そして、他に同志はいないのか、どこそこにいるぞ、となれば、また、藩を越えて 同志に会いに行った。

そして、いつしか、維新の志士たちのネットワークは3000名を超え、新しい国を開く ということがありました。その時、私塾は同志が繋がりあうための装置として機能しました。時を超えて、いま、世代を超え、縦割りを超え、同志が繋がりあう場として 一新塾の役割があるのだと思います。

「平成の松下村塾を目指す!」一新塾創設時の大前研一の言葉です。

江戸時代の末期、ペリーの来航によって、吉田松陰は浦賀を訪れていたペリーの艦隊を眺め、「日本を守るためには、まず外国を知らねば守れない」と、黒船に乗って渡米することをもくろみました。しかし、松陰の必死の懇願も通じず、アメリカ側は乗船を拒否します。

死を覚悟しての行動でしたが、結局、自首を決意し、松陰は野山獄に入牢されることとなります。その野山獄で出会ったのは、長い獄中生活で、いつ自由になるとも知れず、希望を捨て、表情もなく、まるで生ける屍(しかばね)となっていた11人の若者でした。

松陰は、死んだ目をした若者の一人にまず語りかけます。「欧米列強の国々が押し寄せるこの時代をどう受け止め、どう行動すべきなのか?生きるとはいかなることか?」限りを尽くして一人にとことん向き合い、あらん限りの情熱を注ぎ込み、共に立ち上がろうとぶつかっていきました。ついには、若者の胸の中では、埋もれてしまっていた志が揺さぶられ始めるのでした。
すると、その様子を見ていた他の若者が「私も学ばせてください!」と声を上げます。一人、また一人と加わって、いつしか獄舎は学び舎と化していきました。

松陰は、野山獄から出た直後に、叔父から松下村塾を受け継ぐこととなりました。ここで行われた、“突き抜けた教育”は、まさに野山獄で一人に魂込めて限りを尽くしてとことん向き合った中で磨き上げられたものだと思います。そして、幾多の維新の志士たちがここから巣立っていくこととなったのです。松陰は、一人を変えることからの社会変革の実践者でした。

この松陰の姿勢は、社会変革に挑みたいと志を立てた人たちに最も求められているものではないでしょうか。

応えたい対象者を一人に絞り込む。
具体的に誰に応えたいのか、徹底的に絞り込み、一人の人間に定めていきます。その人に会いに行き、話を聞かせていただき、その人に徹底的にアクセスしていくことで、問題の根源もビジョン(願う未来の現実)も浮き彫りになっていきます。そして、その一人に応えるために自らの志を鮮明にして限りを尽くして完全燃焼する。その熱が激しければ激しいほど、続々と他の方へと連鎖を起こしていきます。

社会が変わるとはそういうことだと思います。

激動の時代にあって自らの人生にじっくり向き合い、今後の人生設計に思いを巡らせていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

激動の「社会の現実」に「自分の人生」を投げ入れることで、化学変化が起こり“第2の人生”に向けての道が拓かれる方も少なくありません。

舞台も「業界」から「地域」に乗り換えるなど、縦割りを超えて広い世界を展望して、新しい生き方へ向かう、個々の実験が始まっています

今回は第25期「大阪」地域科の吉見精二さんのメッセージをお届けします。吉見さんの人生の歩みと熱き思い、ぜひ、じっくりお読みください。

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■■■■ 塾生活動レポート
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■■ 『地域を元気にするツーリズム創造事業がライフワーク 』
■■    〜旧余呉町の地域創造型観光プロジェクトの取り組み!〜
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■■■               一新塾第25期「大阪」地域科
■■■■    (有)地域観光プロデュースセンター代表取締役社長
■■■■■□                     吉見 精二


●私のこれまでの人生〜会社人間から早期の乗り換え

私はいま66歳です。会社を早期退職して10年が経ちます。
ジェイティービー在職時代は国内旅行の企画商品づくりと販売促進の仕事が長く、沖縄にも駐在し、地域の旅行素材を商品化したり誘客キャンペーンを全国に仕掛けたりするプロデューサーの仕事をしました。いまでいう着地型観光と呼ばれるビジネススタイルの草分け・元祖を自負しています。そのころの沖縄は本土復帰10周年を迎える頃で、JAL・ANAがジャンボ機を飛ばし、激しく競い合うことで沖縄観光が上昇曲線に乗っかった時代です。


●会社時代の私の誇り

当時はオフだった冬の誘客対策に「暖然沖縄」キャンペーンを企画しました。その時、なかでも、地元住民の協力を得て「沖縄伝統芸能の夕べ」は、現在もジェーティビーが誇る「杜の賑わい」沖縄版の原型として繋がっています。

本来は二人か四人で踊る伝統芸能を広い舞台一杯に大勢で登場させる試みは前代未聞でした。これまで琉球舞踊は研究所は300もあり競い合う間柄で一緒に登場することは無かったからです。有名な大先生方を集めた企画会議で熱く語り説得してやっとの思いで開催にこぎつけました。


●会社人間から社会的人間に

会社を早期退職する動機は、55歳を境にして自由奔放に生きたいという気持ちが強かったからです。「夢と棲む人生を送ります」という挨拶状を送って自由の身になりました。始めは趣味の陶芸で悠々自適の陶芸人生を送ろうと、信楽に伝統的な穴窯を築いて作陶と陶芸教室の講師をしていました。

ある時、観光振興セミナーに参加して聞いた「手垢のついた観光」という講師の語るフレーズに衝撃を受けました。旅行会社の行うマス的旧来観光のことを言うのです。これからの観光は地域づくりと一体になってこそ意義有るものになるということなのでしょう。私は、すぐさまそのことについての勉強をしました。ドラッガーを読んでネキスト・ソサエティだとか、NPOであるとかに大いに関心を深める機会にもなったのです。

そして、滋賀県が主宰する「おうみ未来塾」に入塾し、滋賀県中のNPO団体や面白い活動をしている人材と交流を深めたことが、地域プロデューサーを目指した活動を始めるきっかけになったのです。また、機会あるごとに行政の人たちとも意見を交わす関係をつくってゆきました。このことが、自分の人生の転換期といえます。


●イノベーション(新たな価値創造)を期して一新塾に入塾

5年前に、有限会社地域観光プロデュースセンターという会社を創業しました。地域づくり型ツーリズムの手法で地域を元気にしようと提唱しました。
目指す事業は、おもに農山村地域の住民やNPOが地域のプログラムや旅行商品づくりに主体的に取り組んでもらい地域に交流人口を増やすというものです。さらに、コミュニティビジネスを興し経済的に少しだけ豊かになり、また、自分達が主役になって交流事業を行うことで地域への誇りを取り戻すというものです。そのプログラム化、旅行商品化、ツーリストの誘客をコーディネートがビジネスモデルです。言い換えれば、主体的な市民による地域の元気再生プロデュース事業です。

しかし、全県的に啓発フォーラムなどを何度も自費を投じて実施してきましたが、なかなか活動の広がりに火がつきませんでした。あきらめず、どう展開するかが課題となっているときに、思い立って一新塾に入塾することにしました。

いままでの自分は、自分のミッションにこだわる余り準備過剰でしたが、相手方の地域への踏み込みが遅速と不足していたと謙虚に反省するところからスタートしようと考えました。

そして今後は、支援をしたい相手方の地域のホンネが聞くことに本気で取り組みたいと思いました。さらに、特定の地域を選び、一人でなく多彩な人たちと応援プロジェクトを組成して、「着地型観光」の住民主体によるモデル事業を実現させ、いずれは、他の地域へも水平拡大することを目指すことにしました。

一新塾では、「地域を元気にするツーリズム創造事業のサポート」をテーマにしたプロジェクトを立ち上げて、この指とまれと同志を募ることにしました。メンターの力を借りてイノベーションすることにチャレンジしているところです。


●プロジェクトの現場は高齢化する過疎化地域を選ぶ

プロジェクトの対象地域として、今年の1月に長浜市に吸収合併された人口3900人の旧余呉町を選びました。そして、元気な高齢者・女性の集う住民グループ「また来たい余呉を作るアイディア会議」の関係者と親交を深めることにつとめてきました。

活動推進の中心人物は中山克己さんです。もとは学校の先生で退職後地域で活動を始められました。中山さんは体験プログラムの企画・募集によって地域に交流人口が増えることをプロデュースしたい。それにより地域が元気になることが目標にされています。


●一新塾の3月現場視察で旧余呉町を訪ねる

現場視察のプログラムは、老舗の水飴屋さん、古民家を再生した子ども小劇場、そば道場で手打ちそばの昼食と地元交流。古いお寺の囲炉裏端で白玉ぜんざいを頂き、その後、地元メンバーの方々との交流の機会を設ける、という日帰りプランでした。

塾生との交流・座談会と懇親交流会には、地元から10名以上の人が参加してくださり、塾生との和気藹々の談話が交わされました。質問も飛び交っていました。初めての交流にはとても見えない懐かしい光景でした。


●現場視察参加者と旧余呉町について検証

参加者は7名があり、終了後、真摯な意見を聞くことができました。感想・意見 の内容は、「現場に出て自分で見る、話を聞く、ことの大切さに改めて気づきました。行くまでの仮説と現実との違い、つくづく実感しました」。「余呉の皆さん、元気でしたねーこちらが力をいただきました(笑)」と、Sさんから。 また、「地域に行くとやっぱり人が一番面白いと感じました。お寺の奥さんには圧倒されました。話し上手で気遣いもできて、素晴らしい方」。「高齢者の方が若い人をもっと立ててあげる配慮があっても良いと思いました」。という声をFさんから。そして、「教職を退職された方や、元気な奥様方がまちづくりに積極的に参加されていて、人材にもめぐまれていますね。」という感想をOさんからも頂きました。


●現場視察の交流会で聞いた地域への思い・姿勢

一方、地元の人たちの声として印象に残ったものとしては、「うちらの地域には何にもない。けれど、なんでもあるんや!」という意味深い嬉しい発言もお伝えしておきます。また、長浜市余呉支所の中山伊佐美さんからは、「地域で地域の 人たちが何かやろうとした時は、行政が絡まないことには実現しない。これからも。 可能な限り協力してやっていきましょう」という発言があり、合併後も気持ちで支援するとの気概を感じました。


●地域の「現状の問題」、「社会ビジョン」と私のアクション

いま、「社会ビジョン」を官民が共有し行政が主体的市民に協働を委ねることで、 地域課題の解決の最初の一歩となるはずです。
私は、長浜市や滋賀県の自治振興、農村振興、出先の振興局にもタイムリーに提言し、 旧余呉町を応援してゆきます。

4月15日には、一新塾に神奈川県の松沢成文知事をお招きし、
「神奈川から日本を変える!〜道州制・首都圏連合への展望」を
テーマにご講義いただきました。

松沢知事は、自治体首長の立場で、道州制推進の議論を牽引しています。自らのマニフェストにおいても「新たな広域政府『首都圏連合』を設置し、首都圏全体の政策を展開」すること、「130年経過した都道府県制から『道州制』に転換し、地域主権を実現」することを明記されています。

講義の冒頭では、松沢知事の人生の歩み、人生の転機など、
その都度、志を貫き壁を乗り越えてきたエピソードをいただきました。

そして、松沢知事が描く、道州制実現のシナリオ。
道州制とは、国は必要最小限のことだけ残し、国の権限を徹底的に
地域に委譲していく霞ヶ関解体論。だから国が描くことはできない。
だからこそ地域から声を挙げるべき、と強調されました。
また、国と300の基礎自治体の二層構造では国に大きな権限が
どうしても残ってしまうので道州制は必要との見解を示されました。

また、協働力の知恵は胸に響きました。
「協働力でつくられた条例はみなに守られ成果が上がる!」
受動喫煙防止条例の例を挙げていただき、反対の立場の人であっても
包み込むように、協働して道を拓かれた深き知恵に感動いたしました。

今回は愛知県の知立(ちりゅう)市を現場に、多文化共生のプロジェクト活動に邁進されている第25期「名古屋」地域科の田辺直人さんのメッセージをお届けいたします。
3月28日(日)には、田辺さんの呼びかけで、名古屋地域科塾生メンバーが知立団地に現場視察に行ってきました。自治会による粗大ごみ収集をボランティアで手伝う外国人の方や団地のスーパーで働く方へのヒアリング、自治会長さんとの懇談、知立団地で暮らすブラジル人家庭の訪問、知立市長とも懇談し、様々な生の声に触れさせていただきました。

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■■■■ 塾生活動レポート
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■■         『 知立団地に思いを込めて 』
■■       〜笑顔あふれるコミュニティ広場構想〜    
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■■■■              一新塾第25期「名古屋」地域科
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プロジェクト「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」の舞台となる知立団地。 愛知県の三河地方にある人口7万人程度の小都市・知立市。旧東海道の宿場町 として栄え、歴史と文化、伝統ある祭りが今もこの町の観光を支えています。 知立市が施行した今から40年前、日本の高度経済成長に呼応するかのように 整備されたのが、公団「知立団地」です。地元の重要産業である自動車関連企業への通勤にも便がいいと、多くの住民が入居し、およそ2500世帯、5000人が暮らし始めました。

現在、この知立団地では、住民の半数以上がブラジル人を始めとする外国人労働者となっています。日本人住民の高齢化・独居老人化が進むと、それに合わせるように10年ほど前から外国人が増え始めました。マイノリティからマジョリティへと勢力が変わり、生活習慣の違いによるマナーやモラルの低下、治安の悪化が課題となりました。

私は、ケーブルテレビというローカルメディアで報道活動をする中で知立団地の現状を知り、その姿を少しでも正確に伝えようと、10年前から取材を重ねてきました。一新塾でのプロジェクト立上げは、仕事から離れて一市民の立場となっても、なお関わって行くべき社会的テーマであると考え取り組んだものです。


●「強制」ではなく「共生」

知立団地は、長年の自治会活動によって、全国的にも成功した多文化共生社会を具体化しています。増え続ける外国人に対し、自治会は「強制」ではなく「共生」する術を探りました。習慣や文化の違いを理解し受け入れることで、外国人が主体的に自治会活動に目を向けてくれるように歩み寄ったのです。日本語の話せるブラジル人を自治会メンバーに入れ、外国人からの様々な相談・要望に答えてきました。毎年恒例の夏祭りは、盆踊りからサンバカーニバルに変えました。
就職に有利になるようにと日本語教室を開催し、毎晩多くのブラジル人が勉強に励みました。粗大ゴミの収集日には、外国人の若者たちが自主的に手伝いに出るようになりました。

自治会に決め手となる施策や計画が有ったわけではありません。目の前の現実に真正面から向き合うしかなかったのです。そうした体当たりの行動に外国人住民が共鳴し、知立団地に共生の芽が生まれたのです。


●知立団地が直面している課題

知立団地が今直面している課題は、自治会組織の高齢化です。団地から日本人の姿が減り、一方で独居老人が増えています。自治会長は70歳を超え、同様に自治会のメンバーも高齢化が進んでいます。言葉の壁、文化・習慣の壁を乗り越えてきた知立団地の住民ではありますが、リーダーシップを担う自治会の高齢化によって、せっかく育まれた共生の芽がこれからどのように育っていくのか心配になります。

知立団地は小さな国際都市です。多文化共生のよいモデルケースになっています。
しかし、その国際化も、団地周辺の住民たちから理解され歓迎されているわけではありません。一度低下したモラルや治安は、団地内に暮らす人たちが感じている以上に、周辺の住民に不安感と差別意識を植え付けてしまったのです。自治会の長年の努力によって芽生えた共生というコミュニティも、周辺住民の目には未だ正しく伝わっていないのです。


●「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」

「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」は、団地の今を周辺住民に正しく伝え、日本人住民と外国人住民が、お互いを理解し合い前向きに共生していけるようサポートする活動です。「広場」とは団地の中心にある公園のことであり、人々が集う精神的な拠り所という意味でもあります。

団地で生まれた国際的なコミュニティは、団地周辺の住民を巻き込んでさらに大きなコミュニティを形成する可能性を持っています。その第一歩となるものが、団地に人を呼び込むきっかけ作りだと考えています。知立団地で育まれた共生のコミュニティを、国際交流や異文化交流の一環として活用し、誰もが気軽に団地に訪れるようになれば、外国人だけでなく高齢化が進む日本人住民とも触れ合い笑顔あふれる時間を共有できると思います。

夏祭りのサンバカーニバルは、最もブラジル文化を味わえるイベントとして 広くPRでき、スポーツイベントとしてサッカー大会を企画することもできます。 食文化を楽しめる屋台村を実施すれば多くの人が集まることでしょう。若者同士を結びつけるため、大学のゼミと連携することも可能です。

このように知立団地が日常的に人々の集まる交流広場になることで、自治会ばかりに依存しない主体的なコミュニティ形成が可能となるのです。


●私のプロジェクトが目指すもの

私のプロジェクトが目指すものは、団地の情報を周辺住民に伝えるメディアを創出することです。ツールは情報誌・Webサイト・Net放送など様々考えられ、外国人住民自ら情報発信できるようになることが理想です。行政の理解を得て市政だよりに記事を載せてもらうことも考えられます。

人々が集まり・出会い・学び・理解し合うことこそが、コミュニティ形成の
基本であり、その舞台となるのが知立団地なのです。
日本一小さな国際都市「知立団地」へようこそ!