『 こどもたちのエコスクール 』

さて、今回は、今年の5月に卒塾された第24期生の迫博司さんよりメッセージをいただきました。第24期で迫さんが立ち上げ、7名の同志と現場主義で協働し取り組まれている「こどもたちのエコスクール」プロジェクトの1年を振り返っていただきました。

■■■■■□─────────────────────────────
■■■■ 塾生活動レポート
■■■
■■         『 こどもたちのエコスクール 』
■■      〜一新塾でのプロジェクト活動を振り返って〜
■■■
■■■■                      一新塾第24期 本科
■■■■■□                          迫 博司


  第24期生の迫です。在塾中の2009年8月に「こどもたちのエコスクール」を立ち上げ活動を開始しました。

  私たちのチームの成果は、人の繋がり、人の和です。何があっても、想いを発信し、歩き続ける。そうすると必ず想いを共有できる方、サポートしていただける方に必ず出会うことができる。この確信を得ることができたこと、そして仲間の和が成果です。

●入塾の想い 日本トップクラスのエンジニア?

 入塾時、私は、大手建設会社の設備設計課長でした。勤続19年、先進的なサステナブル建築の設計を行い、度々、学会から賞を頂き、その成果を国際会議で発表してきました。私には、自分の専門性においては、日本のトップレベルで仕事をしているという自負もありました。ただ、どんなに優れたサステナビリティの高い建築をつくっても、社会的に普及しないことに、限界を感じていました。19年でどれだけの建物をつくれたか。これから20年でどこまでできるのか、と。

 中学校の設計を頼まれた時、学校から「エコスクールの設計をお願いします。 新校舎は、勉強に集中できるように、全て冷暖房完備でお願いします。」と。 違う!学校には夏休みがあるのです。 自然通風や建物配置を工夫すれば、 冷房なしでも快適に過ごせるのです。また、どうしたら涼しく、また、温かく 快適に過ごすかは、こどもたちが自分たちで考えることが大切なのに、室内温度が28℃になるまで我慢。28℃を超えたらエアコンをつけてよい。などと決めつけることも間違っている。そんな中、もやもやした気持ちで一新塾の門を叩いたのです。


●1人で見知らぬ学校訪問

 チーム名「こどもたちのエコスクール」。
(1)こどもたちに建築と環境・エネルギーの知恵と工夫について授業。
(2)こどもたちが自分たちの学校を、自分たちの知恵で省エネ化。
(3)削減した水光熱費で、こどもたちが社会問題解決。         
考え方は、分かりやすいものです。

 私は、チーム結成前のお盆休みに、地元の新宿区の小学校へ行きました。その学校は、校庭の全面芝生化を新宿区報に掲載された学校でした。私は、校庭の芝生化の実施が進まない現状の中、芝生化を実現したこの学校には、きっとよいリーダーがいると考え、「芝生見学させてください」と言ってアポなしで訪問したのでした。素晴らしい学校でした。副校長先生とお話し、私たちが入りこむ必要のない学校でした。

 よい学校は、私たちの活動を必要としていない。一方、保守的な学校は、「いい話ですね。検討してみます。」と言ったきりで、話がすすまない。3校訪問し、我々の提案を採用してくれる学校はありませんでした。

●二度目の一新塾合同合宿と学校

 チームを立ち上げ、メンバーは、隔週のチーム打合に、忙しいながらも、参加し意見をしてくれました。ただ、一緒に活動を共にしてくれる学校が無いことには・・・。
私は、何かの気づきを求めて2回目の一新塾合同合宿に参加しました。出会いは、ここにもありました。「昨年から行っている中野エコマップの活動に、エコの専門家がいない。協力して欲しい。」とOBの大島さんから話があったのです。早速、エコマップの活動を伺い、昨年エコマップを実施した新渡戸文化学園と打合を開始しました。学校は即決で連携していくことを決めて頂きました。

●最年少メンバーから一喝

 チームメンバーは、20歳台〜大先輩まで、まったくキャリアの違う8人が集まりました。私が、資料をつくり皆にレビューをする。でも、授業のコンテンツつくりとこどもたちへの訴えについては、私の中では、かなりぶれていました。モザンビークでこどもたちに英語を教えて帰国した若手の女性メンバーにも、モザンビークの話を語って欲しいと考えていました。
でも、彼女から一喝されました。「皆、迫さんの話を聞きたくて集まっている。迫さんが話さないでどうする。」と。さらに、森嶋さんからは、「迫さんがこどもたちに語らず、誰が語る?」と言われ、自分がやってきた建築と環境・エネルギーの想いや知恵と工夫を語ろう。と気持ちが固まったのでした。

●こどもたちと環境教育の授業

  今年の活動は、
 (1)建築と環境・エネルギーの授業
 (2)鍋横商店街の実情説明
 (3)鍋横商店街の街歩き取材
 (4)こどもたちによる鍋横商店街のエコ化提案             
    することになりました。

  チーム活動も、授業コンテンツの作成、一新塾での授業リハーサル、新渡戸文化学園での授業リハーサルを経て、こどもたちのエコスクールの第1回の授業を6月に行いました。そして、7月に鍋横商店街をこどもたちがエコ化するための取材を実施しました。私も授業後、こどもたちの商店街歩き取材に同行しました。

 授業は、私にとっても、とても面白いものでした。伝えたいことをしっかり話しました。しかし、たった1コマの授業と街歩き取材で、こどもたちに何を伝えられたのか。私は、不安でした。授業後、担任の先生からは、「こどもたちは、今日の授業で何かを感じた生徒、街歩きの時に何か思い出す生徒など色々です。」と。私は、「そうか、気づきにも、色々な場面があるのだ。どれだけ多くの気づきの機会を用意できるかが大切なのだ。」と、気づかされました。授業後の生徒の質問も、様々でした。その中の1人に、何か気づきのあった生徒も確かにいました。「気がついたこと。できることは、自分で実行する!」と授業の最後に強く話した後、次の授業で、1人の生徒に変化があったところを発見しました。一番、嬉しい瞬間でした。

 9月には、いよいよこどもたちの考えをまとめ、商店街へプレゼンテーションします。どんな提案ができるのか、楽しみです。

『夢への一歩【笑顔と夢を運ぶサンタクロースになりたい!】』

さて、今回は、今年の5月に卒塾された第24期生の勝見恭子さんのメッセージをお届けします。深く深く志の“根っこ”を掘り下げた末、2月から目黒区の社会教育館の一室で「めだかの学校」を始められた勝見さん。揺るがぬ思いで行動を積み上げる勝見さんの姿勢が胸に響くメッセージです。

■■■■■□─────────────────────────────
■■■■ 塾生活動レポート
■■■
■■   『夢への一歩【笑顔と夢を運ぶサンタクロースになりたい!】』
■■■
■■■■                      一新塾第24期 本科
■■■■■□                         勝見 恭子


「あなたにしかできないことが、きっとある!」

今、毎日が辛いと感じている子供達にそう伝えたい。
今、生きがいが見当たらず、何かに挑戦したいともがく大人達にそう伝えたい。そして、少し前まで辛くてもがいていた過去の私にこう伝えたい。
「私は今、過去の経験があるからこそ、夢に向かえています」と。


1年半前、私の夢はつかみどころのない、大きな雲のようだった。
【笑顔と夢を運ぶサンタクロースになりたい】と、理由は説明できずとも、
ただその言葉だけが、自分が心から納得できる譲れない夢だった。

一新塾で、自分の志にとことん向き合っていく中で、
日々の身近なニュースが、私を駆り立てた。

・小中学生の不登校13万人
・うつ病通院者90万人
・介護殺人200件/6年
・自殺者数3万人
・虐待相談件数4万件

「心に痛みを抱えている人が、こんなにも沢山いる。
私は、その痛みを少しでも和らげられるようなそんな活動をしていきたい」
こう決意ができたとき、私はスタートラインに立てたのだと思う。


●過去の自分に向き合う

しかし、それからの「一歩」がなかなか踏み出せなかった。
どこに向かえばいいのか分からず、幾度となく舞い戻った。
「私は一番最初に、『誰に』笑顔と夢を運びたいんだろう。」

自問自答する中、インターネットを通して
私は、理由なく心が動いてしまう子供を見つけた。

「何で生きているんだろう」と誰にも相談できず、
掲示板に思いを吐き出す小学生。
自分の過去と重なる子供だ。

小学生の頃の思いを、私は今まで心の奥深くに閉じ込めていた。
「消えてしまいたい」と思っていた日々。
毎日が辛くても誰にも本音を話せず、
常にイイコでいようとしていたこと。
心の中ではSOSを出していたのに、
外に出す勇気が、心を許せる相手がいなかった。

私は、過去の自分に向き合うのが、何よりも怖かった。
今でも、私自身が本音を、過去の経験を奥深くにしまいこんで、
建て前で生きていることに気付かされたくなかった。
過去の自分と今の自分は違うんだと思いたかった。


チームを立ち上げて、何もできなかった半年間。
過去の自分から逃げていた半年間だった。

しかしその半年間が教えてくれた。
自分が変わることでしか、社会は変えられないのだと。
私が過去の私自身を好きにならなければ、
過去の私と同じような環境にいる子供達に、
自分自身を好きにさせることはできないのだと。

そして、私の強みは、辛い心の痛みに共感できること。
過去の経験があるからこそ、今救いたい子供達の気持ちに
しっかり寄り添うことができるのだと。

だからこそ私は今、本当の自分自身で、子供達も本音を話せる場所、
SOSを発信できる場所をつくりたい!


●「めだかの学校」

入塾から半年後。私はやっと、夢に向かって一歩を踏み出すことができた。
子供達に寄り添うことを心に決め、目黒区の社会教育館の一室を借りて、
無料の自習サポート教室「めだかの学校」を始めた。

「めだかの学校」は、子供たちが親の許可なしで来れるように、
無料で、図書館と同じ建物で開催。
友達と一緒じゃなくても来れるように、土曜日の午前中に開催。
全て、過去の私が助言してくれた。

開校して1カ月半、「めだかの学校」には誰も来なかった。
第一回  2月13日 参加者なし
第二回  2月20日 参加者なし
第三回  2月27日 参加者なし
      ・
      ・
第六回  3月20日 参加者なし

でも、私はもう舞い戻らなかった。
過去の私なら、新しい場所に参加するのは、
大きな勇気が必要なことが分かっていたから。

第七回  3月27日 小学生2名
第八回  4月3日  小学生2名
第九回  4月10日 小学生4名
第十回  4月17日 小学生7名
第十一回 4月24日 小学生6名
      ・
      ・

♪そーっと覗いて見てごらん♪

開校から半年たって、現在は毎週平均5,6人の小中学生が勉強に来るようになった。
地域の方もボランティアスタッフとして4人加わってくれて、
子供達はそれぞれ、思い思いの時間を過ごしていく。

黙々と勉強する子も、お菓子を食べにくる子も、スタッフに甘えにくる子も、
友達と遊びにくる子も、ずっと話していたい子もいる。みんな自然体だ。

この子たちが、いつか心が不安定になってしまった時、
自然と寄り添える距離に、私はいたい。
私じゃなくとも、地域の身近な大人が、
心の痛みに気づいてあげられる距離にいてほしい。


♪誰が生徒か先生か♪

私は今、子供達からたくさんの元気をもらっている。
一緒に励んでいる同志も、地域のスタッフの方も、
子供達と一緒にいる時の笑顔がとても素敵だ。

いつか子供達の通学路に、寄り道できる「めだかの学校」が、
立ち話しできる身近な大人が、たくさん溢れるコミュニティにしたい。

様々な大人の背中は、子供達にとって、きっとたくさんの夢の種となる。
子供達から夢や元気をもらえる大人もたくさんいるはずだ。
そして、このつながりが多くの笑顔を生んでいくと、私はそう信じている。

『 東京〜泉崎村間220キロを行脚! 』

2000年に約68億円もの赤字を背負い、財政破綻した福島県泉崎村ですが、国の管理下に入る準用再建団体にならず、自力で財政再建する道を選択し、“自立の精神”と“突出したアイデア”で自治体再生の道に挑んできました。

先頭に立って旗を振ってきたのが、福島県泉崎村長の故小林日出男氏です。ちょうど 1年前の2009年8月5日に一新塾にてご講義をいただきました。 最大のピンチを再生のチャンスに変える小林村長に“主体的に生きる”とはどういうことなのか学ばせていただきました。

今年6月19日から26日まで1週間かけて、財政破綻した泉崎村を元気に
するため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚された一新塾第23期生の松澤章さん。

今回は、松澤さんご自身に、一連のドラマと新たな挑戦に向けての志を語っていただきました。ぜひ、ご一読ください!

■■■■■□─────────────────────────────
■■■■ 塾生活動レポート
■■■
■■        『 東京〜泉崎村間220キロを行脚! 』
■■■
■■■■                    一新塾第23期 本科
■■■■■□                         松澤 章


一新塾23期OBの松澤章と申します。
現在34歳、栃木県に住むサラリーマンであり、二児の父です。
今年6月19日から26日にかけて、財政立て直しを進める福島県泉崎村を元気にするため、また昨年急死された故小林村長との約束を果たすため、東京日本橋から福島県泉崎村までの220キロを一人で歩き村のPRをしました。
一介のサラリーマンが何故そんなことをしたのか?その顛末をお話いたします。

●入塾の経緯

私が一新塾の門を叩いたのは2008年の秋でした。
それまでの私は東京の不動産ファンド会社で働いておりました。
業務で都心の大規模再開発を扱う一方、資本主義の原理だけでは地方の衰退を止めることが出来ず、地方を愛する自分の気持ちとの間に矛盾を感じていました。

そんな中、世界金融危機により勤務先が破綻。
破綻を機に「本当に自分のやりたいこと」を見つめなおし、「地元栃木をはじめ地方を元気にする」ことを一生のミッションにすることを決意しました。
そのヒントを探す為、一新塾に入塾した次第です。

私にとって一新塾での活動は、自分がうち砕かれることの連続でした。
ファンド運営という、いわば資本主義の尖兵であった私は、競争原理の中において自分の勝利だけを追求してきました。
しかしそれでは皆は幸せになれない。
一新塾での活動は、そんな当たり前の事すら鈍感になっていた私を目覚めさせてくれるものでした。

●小林村長との出会いと突然の訃報

泉崎村の小林村長とは昨年8月、一新塾での講義を通じて出会いました。福島県南部に位置する泉崎村は、バブル期の開発が原因で財政破綻してしまいます。通常は、夕張市のように国の管理下となるのが一般的です。
村長就任後、財政破綻の事実を知らされた小林村長は、村民みんなの尊厳のため、自らの手で借金返済することを選択しました。
手法としては村で宅地を造成し、そこに移住者や働き場所を誘致するというものでした。予算の全くない中、村をPRする為に村長が自らが泉崎村から東京までを行脚しました。

一新塾では塾生自らで講義進行の企画を考え、司会を担います。
私の妻が福島県の出身で、義理の妹が泉崎村在住です。
何かのご縁を感じ、私が小林村長の講義司会を担当いたしました。
講義の際、小林村長のお取り組みに感動した私は、頑張る泉崎村の皆様を応援したく、小林村長とは逆に東京から泉崎村を逆に行脚させていただくことをお願したところ、村長からは快諾いただきました。

それから1ヶ月ほど後、突然の訃報が届きました。
小林村長が亡くなられました。
任期途中の早過ぎる死でした。
行脚の計画も白紙となりました。

その年の年末、私は腰をすえて地方を元気にしたいという思いから、家族を連れて地元栃木に引越しました。
栃木での生活も落ち着くにつれ、私の心の中で亡くなられた村長との約束が大きくなってきました。
「地方を元気にする」事が私のミッションです。泉崎村を応援するため、
小林村長との約束を果たす為、東京から泉崎村の220キロを歩いてPRすること決意しました。

●行脚の道中

梅雨も開けぬ今年6月19日、一新塾の同志たちに見送られながら、私は
日本橋を出発しました。
肩に「福島県泉崎村を元気に!」と書いたタスキを掛けて、国道4号線を
ひたすら北に向かって歩きます。
東京を抜け、埼玉・栃木を通過、那須連山を超え一路福島県泉崎村を目指しました。

道中は新聞取材や地元ラジオ局へ出演し積極的に泉崎村をPRする他、自分でも情報発信を行ないました。ツイッターとGPSを活用、今私がどこを歩いているのか、なにを感じているのかをホームページにリアルタイムで公開しながら行脚しました。

わずか8日間でしたが、予想を超えた、非常に密度の濃い出会いばかりでした。全く面識のなかった多くの方々が、ツイッターや新聞を見て思いに共感していただき、応援に駆けつけてくれました。
一般の方だけでなく、大手スポーツ用品店や栃木県矢板市の市長にも直接ご声援をいただき、応援の品を頂きました。
最初は泉崎村を応援するつもりで歩いていましたが、逆に私の方が、多く
の方に支えていただいての行脚でした。道中、体は辛かったですが、多くの方の声援をいただき、本当に楽しく歩くことができました。そして、応援いただいた皆様にも楽しんでいただけたのではないかと思っています。

●新たな約束

東京を出発してから8日後の6月26日、無事ゴールの泉崎村役場に到着
しました。現村長を初め、約50人の方に迎えていただきました。
小林村長のお墓に道中の無事を報告した後、村長の奥様と対面いたしました。私が小林村長の思いを受け継ぎ、そして多くの方に賛同いただき、思いがさらに広がった事をお話すると、奥様は泣いて喜んでくださいました。その涙だけで、歩いた価値があったと思います。

村長のお墓に、新たな約束をしてきました。
「一生を通じ、地方に貢献する活動を継続すること。それに相応しい人間になること。」これからもどんどん、地方を元気にしてきたいと思います!
その際は是非!皆様と楽しむことができればと願っています。

東京日本橋から泉崎村までの220キロ踏破!

財政破綻した福島県泉崎村を元気にするため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚されていた一新塾第23期生の松澤章さんが、6月26日、見事に220キロを踏破され泉崎村に到着されました!

行脚のきっかけとなった故小林日出夫前泉崎村長の墓前に無事の到着をご報告されたとのことです。松澤さん、本当にお疲れさまでした!
(松澤さんの今回のチャレンジの経緯は末尾をご覧ください)

このたびの松澤さんのチャレンジが「読売新聞」「下野新聞」に掲載されて
いますので共有させていただきます。
---------------------------------------------------------------------
東京・泉崎間を踏破 前村長の遺志継ぎ(6月27日 読売新聞 福島版)
 
東京→福島・泉崎村220キロ行脚 亡き村長の意志継ぎ、移住呼びかけ(6月23日 下野新聞)
---------------------------------------------------------------------

卒塾生の松澤章さんがラジオ出演!(栃木放送ラジオ)

一新塾第23期「東京」本科卒の松澤章さんが、現在、財政破綻した福島県泉崎村を元気にするため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚中です。(6月19日に日本橋をスタート、6月26日到着予定)。

●行脚の予定
 国道4号線(旧4号)をひたすら北上
H22年6月19日AM10時 東京日本橋出発〜
       20日埼玉南部〜埼玉北部
       21日埼玉北部〜栃木県小山市
       22日栃木県小山市〜栃木県宇都宮市
       23日栃木県宇都宮市〜栃木県矢板市
       24日栃木県矢板市〜栃木県那須塩原市
       25日栃木県那須塩原市〜福島県白河市
H22年6月26日14時 泉崎村役場到着

21日午後、松澤さんと電話で話をしました。「日本橋〜泉崎村220km」と書かれたタスキをかけて現在、小山市を元気に行脚を続けています。

松澤さんは明日6月22日の14時〜の栃木放送ラジオ「みんなのラジオ」にラジオ出演されるとのことですので、取り急ぎ共有させていただきます。
---------------------------------------------------------------------
 6月22日(火)の14時〜 
 栃木放送ラジオ「みんなのラジオ」の番組内で15分程度
---------------------------------------------------------------------

松澤さんがご自身のブログに書かれている、このたびのチャレンジに挑むことになった経緯を共有させていただきます。

 〜〜以下、松澤さんのブログの引用です〜〜

【亡き村長との約束】
●泉崎村って? なんで歩くの?
 泉崎村は福島県の南部に位置する村です。
 バブル期び住宅団地や工業団地の造成を行ったが買い手がつかず、逆に莫大な借金を抱え財政破綻寸前の危機にありました。
 2000年2月、就任直後にそれを知ることとなった小林日出夫村長は事実を村民に公表。
 村民自らで借金返済をする道を選択します。小林村長自ら福島県から東京までの220km
 を歩く「財政再建行脚」を行い、村営の住宅団地の販売PRをしました。

 だが悲劇は突然訪れます。
 売り込みに奔走し、68億円あった借金を半分以下として、借金返済のめどがたってきた矢先、
 小林日出夫村長は、任期途中の2009年の9月18日に63歳という若さで急逝してしまいます。

●泉崎村との約束
 一新塾という私塾があります。NPO法人の政策学校であり、様々な講師を招いた講義を通して、官僚や政治家にすべてを任せるのではなく「主体性を持った市民」を輩出ことを目的としています。その一新塾が、小林日出夫村長との出会いの場となりました。

 いまでも残る小林日出夫村長のブログの記述
 http://blog.livedoor.jp/izumizaki/archives/51597688.html

 小林日出夫村長の辿った道のりを逆に歩き、泉崎村を応援をしたい。
 東京から泉崎村に歩いていって泉崎のよさを体験したい、様々な人に泉崎村を知ってもらい、元気になってほしいのです。
 泉崎村を心から応援するために歩きます。

 そして、twitterで色々とつぶやき、みんなとつながりながら220kmを旅したいと思います。
 そんな願いから「220km つながり行脚」と称して1週間かけ行脚を行います。

『 知立団地に思いを込めて 』

今回は愛知県の知立(ちりゅう)市を現場に、多文化共生のプロジェクト活動に邁進されている第25期「名古屋」地域科の田辺直人さんのメッセージをお届けいたします。
3月28日(日)には、田辺さんの呼びかけで、名古屋地域科塾生メンバーが知立団地に現場視察に行ってきました。自治会による粗大ごみ収集をボランティアで手伝う外国人の方や団地のスーパーで働く方へのヒアリング、自治会長さんとの懇談、知立団地で暮らすブラジル人家庭の訪問、知立市長とも懇談し、様々な生の声に触れさせていただきました。

■■■■■□────────────────────────────
■■■■ 塾生活動レポート
■■■
■■         『 知立団地に思いを込めて 』
■■       〜笑顔あふれるコミュニティ広場構想〜    
■■■
■■■■              一新塾第25期「名古屋」地域科
■■■■■□                       田辺 直人


プロジェクト「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」の舞台となる知立団地。 愛知県の三河地方にある人口7万人程度の小都市・知立市。旧東海道の宿場町 として栄え、歴史と文化、伝統ある祭りが今もこの町の観光を支えています。 知立市が施行した今から40年前、日本の高度経済成長に呼応するかのように 整備されたのが、公団「知立団地」です。地元の重要産業である自動車関連企業への通勤にも便がいいと、多くの住民が入居し、およそ2500世帯、5000人が暮らし始めました。

現在、この知立団地では、住民の半数以上がブラジル人を始めとする外国人労働者となっています。日本人住民の高齢化・独居老人化が進むと、それに合わせるように10年ほど前から外国人が増え始めました。マイノリティからマジョリティへと勢力が変わり、生活習慣の違いによるマナーやモラルの低下、治安の悪化が課題となりました。

私は、ケーブルテレビというローカルメディアで報道活動をする中で知立団地の現状を知り、その姿を少しでも正確に伝えようと、10年前から取材を重ねてきました。一新塾でのプロジェクト立上げは、仕事から離れて一市民の立場となっても、なお関わって行くべき社会的テーマであると考え取り組んだものです。


●「強制」ではなく「共生」

知立団地は、長年の自治会活動によって、全国的にも成功した多文化共生社会を具体化しています。増え続ける外国人に対し、自治会は「強制」ではなく「共生」する術を探りました。習慣や文化の違いを理解し受け入れることで、外国人が主体的に自治会活動に目を向けてくれるように歩み寄ったのです。日本語の話せるブラジル人を自治会メンバーに入れ、外国人からの様々な相談・要望に答えてきました。毎年恒例の夏祭りは、盆踊りからサンバカーニバルに変えました。
就職に有利になるようにと日本語教室を開催し、毎晩多くのブラジル人が勉強に励みました。粗大ゴミの収集日には、外国人の若者たちが自主的に手伝いに出るようになりました。

自治会に決め手となる施策や計画が有ったわけではありません。目の前の現実に真正面から向き合うしかなかったのです。そうした体当たりの行動に外国人住民が共鳴し、知立団地に共生の芽が生まれたのです。


●知立団地が直面している課題

知立団地が今直面している課題は、自治会組織の高齢化です。団地から日本人の姿が減り、一方で独居老人が増えています。自治会長は70歳を超え、同様に自治会のメンバーも高齢化が進んでいます。言葉の壁、文化・習慣の壁を乗り越えてきた知立団地の住民ではありますが、リーダーシップを担う自治会の高齢化によって、せっかく育まれた共生の芽がこれからどのように育っていくのか心配になります。

知立団地は小さな国際都市です。多文化共生のよいモデルケースになっています。
しかし、その国際化も、団地周辺の住民たちから理解され歓迎されているわけではありません。一度低下したモラルや治安は、団地内に暮らす人たちが感じている以上に、周辺の住民に不安感と差別意識を植え付けてしまったのです。自治会の長年の努力によって芽生えた共生というコミュニティも、周辺住民の目には未だ正しく伝わっていないのです。


●「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」

「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」は、団地の今を周辺住民に正しく伝え、日本人住民と外国人住民が、お互いを理解し合い前向きに共生していけるようサポートする活動です。「広場」とは団地の中心にある公園のことであり、人々が集う精神的な拠り所という意味でもあります。

団地で生まれた国際的なコミュニティは、団地周辺の住民を巻き込んでさらに大きなコミュニティを形成する可能性を持っています。その第一歩となるものが、団地に人を呼び込むきっかけ作りだと考えています。知立団地で育まれた共生のコミュニティを、国際交流や異文化交流の一環として活用し、誰もが気軽に団地に訪れるようになれば、外国人だけでなく高齢化が進む日本人住民とも触れ合い笑顔あふれる時間を共有できると思います。

夏祭りのサンバカーニバルは、最もブラジル文化を味わえるイベントとして 広くPRでき、スポーツイベントとしてサッカー大会を企画することもできます。 食文化を楽しめる屋台村を実施すれば多くの人が集まることでしょう。若者同士を結びつけるため、大学のゼミと連携することも可能です。

このように知立団地が日常的に人々の集まる交流広場になることで、自治会ばかりに依存しない主体的なコミュニティ形成が可能となるのです。


●私のプロジェクトが目指すもの

私のプロジェクトが目指すものは、団地の情報を周辺住民に伝えるメディアを創出することです。ツールは情報誌・Webサイト・Net放送など様々考えられ、外国人住民自ら情報発信できるようになることが理想です。行政の理解を得て市政だよりに記事を載せてもらうことも考えられます。

人々が集まり・出会い・学び・理解し合うことこそが、コミュニティ形成の
基本であり、その舞台となるのが知立団地なのです。
日本一小さな国際都市「知立団地」へようこそ!

『 明るい水産業を創る 』〜岡田浦漁港視察〜

ここ数年、私は毎月一回、名古屋・大阪・福岡にお伺いしています。そして、地域科の塾生の皆さんと顔を併せ、一回平均5〜6時間のプログラムで、講座・ワークショップ・コンサルティングをしています。

加えて、地域科では、塾生が持ち回りで企画・実行する現場視察を毎月一回実施しています。塾生自らがテーマを設定し「まちづくり」「商店街再生」「フリースクール」「障害者スポーツ」「漁港」など、12月からの3ヶ月で様々なテーマでの現場視察が実施されてきました。

今回は、昨年11月に一新塾第25期に入塾された「大阪」地域科の白川光弘さんの熱い現場視察体験記をお届けいたします。ぜひ、じっくりご覧ください。

■■■■■□────────────────────────────
■■■■ 塾生活動レポート
■■■
■■           『 明るい水産業を創る 』
■■             〜岡田浦漁港視察〜
■■■           
■■■■                一新塾第25期「大阪」地域科
■■■■■□                        白川 光弘


 水産を志し大学で学び、大阪市中央卸売市場の水産物卸売会社に就職した。
以来20年以上勤務し、良い時も悪い時も経験した。
 ここ3年程は、営業を離れているが、改めて業界を見渡したとき、地方の
規模漁業者の衰退、資源の減少が気になり始めた。
 一方では、魚離れが進んでいる。消費者の食生活の変化、魚の調理に起因する主婦の魚離れ、骨があることに対する抵抗感、などによって魚の消費は減少してきている。

 これまでの私は、会社の業務にかこつけて、業界の窮状には目を背けてきたが、生産と消費の両方の場面で、水産の衰退が進むのを目の当たりにして、自分が親しみ、今や飯の種とまでなった水産業が衰えていくのはたまらなかった。
 
 きれいで豊かな海を取り戻したい、そして豊かな海の恩恵を受け、漁業者が豊かな生活をできるようにしたい。
 今現在も中央卸売市場で働く私は、生産と消費の流通の中心点に存在し、生産の現場で起こっている事、消費の現場で起こっている事の両方を身近に感じる事ができる。
 こういう立場にいる私だからこそ、水産業の事を真剣に考え業界の仕組みや考え方を変えていく起点になりたい。これまで何もしてこなかった事への罪滅ぼしであり、自分の転換点である。そのころ一新塾を知り、1年以上悩んだ末、昨年11月に25期大阪地域科に入塾した。


●水産業界の現状

 農業、林業が抱える問題と同じ事が水産業でも起っている。収入の問題、高齢化による後継者の問題。そして「魚離れ」による消費の後退。米や野菜で起こっている事と同じだ。何か役に立てる事ができないか。頭の中をグルグル回っている思いを確認するため、現場視察を行った。自分の考えている事や、本やテレビで得た知識が正しいのか。


●早速、現場視察へ!

 昨年末、「漁港を見に行こう」と大阪地域科の同志に現場視察を提案した。興味を示してもらえるのか心配だったが、すぐに有志は集まった。現場は、関西空港を間近に望む岡田浦の漁港だ。

 当日は、朝10時から、漁協の職員の方、漁協青年部長、前青年部長の3名に漁協の現状や、大阪湾の資源状態を話していただいた。

●岡田浦漁協の現状

 現在、漁協の組合員は70名ほど、35〜45歳が多くまだまだ現役バリバリの漁業者が多い。若くて活気のある漁港なのだが将来については不安を持っていた。

「若い人は、ほとんど入ってこない。」
「自分の子供に後を継げとは言えない。」
「資源はどんどん減ってきている。」
「温暖化の影響か、獲れる時期や、量が変わってきた。」
「物価や経費が上がり、一方で魚の値段は下がり本当に大変だ。」

 漁業者の口をついて出るのは、漁業の将来に不安を感じている言葉が圧倒的に多い。事実、大阪湾の魚は年々減っており、昭和60年ごろ10万トンあった漁獲量が近年2万トンまで落ち込んでいる(魚種によっては10分の1)。
関西空港建設、湾岸の埋め立てにより魚の住む場所、産卵する場所が奪われ、海流の流れも変わり、豊かだった昔の海の面影はない。
やはり、漁業者は苦しんでいる。


●現場で知った新しい事

 反面、上手く行っている事もあった。日曜朝市だ。近隣の漁港でも行っているが、都市圏に近い事もあり毎週日曜の朝は、買い物客で賑わう。新鮮な大阪湾の魚が格安で手に入る。漁協は、漁業の収入の減少をいくらか補う事ができる。また、地引網や体験漁業も家族連れに人気らしい。漁業者たちは自分たちの手でできる事を始め、成功事例を積み重ねていた。なんだか、自分の出る幕はないのかと感じ始めた。


●理想の水産業を目指して

 本当に私にできる事はないのか。いやいや、そんなことはない。
 朝市、地引網、体験漁業、海鮮バーベキュー。みんな目の前の海の幸だ。やはり、資源の回復が欠かせない。豊かな海で魚を獲り生活してゆく、そして自然に子供たちが跡を継ぐ。若者たちが集い、新しい力となって漁港を盛り立てる、そういう風景が見られるような水産業を目指したい。
 水産業の未来のために、資源を回復させ、魚食の普及を図る事で収入の安定を目指せないものか。日本の沿岸漁業が元気になってこそ、水産業の未来はあると考えている。


●今後の私

 私は、魚食普及、食育の活動を漁業者と共に進めて行こうと考えている。そして販売価格の維持向上を目指し、漁業者の生活の安定を助けて行きたい。資源回復のため、漁業者と共に考え漁業者の声を行政に届ける役割を果たして行きたい。どちらもすぐに効果の見える事ではないが一新塾の同志の力を借りながら、進んで行こうと思う。

 そのためにも、まずは漁業者の実態を調べ生の声を聞いていきたい。
新しい販売のルートを開拓したい。大消費地大阪を前に地元ブランドを生かしていきたい。そして、資源回復のための活動をしていきたい。

 私がやりたいのは、消費者の魚離れへの挑戦であり、沿岸漁業を復活させることである。そして、生産者、消費者が共に豊かになる水産業を目指す。

 現場視察で「びっくりしてる。君たちの様な外の人が漁業の心配をして
くれているとは思わなかった」と言われたが、私たちの想いが伝わったのかもしれない。この想いを大事にして自分の原点にしたい。

一新塾講師にハットウ・オンパク理事の野上泰生氏!

1月27日(水)の講義は、
「別府から全国へ!“オンパク”で地域資源を掘り起こす」をテーマに
NPO法人ハットウ・オンパク理事の野上泰生氏にご講義いただきました。

『オンパク(別府八湯温泉博覧会)』は、別府市内に広がる8つの湯元全域でまちづくり活動から生まれたプログラムです。 地域の普通の人たちの関心や一芸を活用した多彩なミニ体験交流プログラムが、約1か月に渡って集中的に開催されます。
地域を活性化するだけでなく、地域リーダーとなる人材が育まれる「地域の苗床」とも言えるこのオンパクモデルが、今、全国各地に広がっています。

野上さんがまちづくりを始めた当初は、観光客を増やしたい、旅館のお客さんを増やしたいとの思いがあったが、まちづくりに没頭すると、そんなことどうでもよくなった。この意識の転換が、多くの人たちを巻き込む大きな求心力になったのだと思います。

「人は主役になると変わる!」
「合意形成がなくとも2〜3人集まれば自分のモデルをやってしまう」
とのお言葉は、一新塾で起こっていることと同じで大変共感いたしました。

そして、オンパクの持つ、苗床機能により、数々のソーシャルベンチャー
が続々と誕生していること。
そして、関係にアプローチして苗床機能を生み出すことの意義に加え、
コーディネーターがしっかり活躍できる環境を生み出すことの重要性を
学ばせていただきました。

『家族を救ったおかんのあったかご飯─実録 家族再生ものがたり』

一新塾第20期生で、「生命環境リサイクルプロジェクト」のリーダーとして活躍されてきました西田尚美さんがこのたび出版されました。

 --------------------------------------------------------------
 『家族を救ったおかんのあったかご飯─実録 家族再生ものがたり』
                 (西田尚美著・マガジンランド)
 --------------------------------------------------------------

 著者の西田尚美さんからのメッセージです。
「この本は、私が循環型社会を目指す動機になった家族の出来事を書いています。以前は、夫婦が離婚の危機にあり、家族がバラバラになりかけた事態を娘によって救われ気づかされたドキュメントです。それによって食の危険性や環境の悪化を目の辺りに感じ、見えない力で動かされたと言っても過言ではないと思います。本を出版するに当たって、娘の自尊心を傷つけるのではないかと悩みましたが、娘自身から、世の中の間違いに少しでも気づいてくれる人が居るならいいよ。と大きな愛情を貰いました。本の題名は、「家族を救ったおかんのあったかご飯」となっていますが、私にとっては娘に救われたとしか言えません。」


 私も、昨晩、一気に読ませていただきました。とても胸を揺さぶられました。一緒に暮らしていても家族のつながりが実感できない。居場所がない。都会の便利さによって、気づかぬうちに大切なものを失ってしまい、バラバラになってしまった家族の再生の心に響くノンフィクションの物語です。

これは、西田さんの家族だけの問題ではなく、現代を生きる多くの人たちがのまれる苦悩と葛藤をテーマにしていると思います。
そして、その解決のための大切な知恵を発信いただいています。
ぜひとも多くの方に読んでいただきたい一冊です。


●西田 尚美さんプロフィール
1960年8月18日生まれ。銀行員3年後、結婚。12年間、PTA活動を行い、元宇美小学校PTA副会長にもなる。同時に生け花の師範としてフラワー教室を開催し、フラワーデザイナーとしてフラワーショップ花MOMOも経営。その後、筑紫野市の「女性の翼」にてヨーロッパの環境・教育・福祉に刺激を受け、地域のコミュニケーションを活性化するため、NPO法人「よか隊」を立ち上げ。また、永年に亘り商工会活動を通じ、地元のお祭りやイベント活動にも積極的に参加し、宇美町商工会女性部の部長として地域の活性化のため東奔西走。

●アマゾンへのリンク
 『家族を救ったおかんのあったかご飯─実録 家族再生ものがたり』
 

『浜松ブラジル人緊急会議』 16期 松井一哲さん

浜松在住の一新塾第16期OBの松井一哲さんより、昨日、以下のメッセージをいただきました。松井さんは「浜松ブラジル人緊急会議」を立ち上げ奮闘されていらっしゃいます。
 
 -----------------------------------------------------------------

  16期通信科の松井一哲です。

  先日、湯浅誠さんによる公開講座のお知らせをメルマガにて拝見しましたが、私の住んでいる浜松市の状況も悲惨です。

 浜松市は日系ブラジル人が日本一多い街ですが、自動車産業をはじめとする製造業で働くブラジル人の失業率は今月末には80%にも達すると言われています。

 TV等でも取り上げられましたが、住居がなくなって、今日食べる物もなく、赤ちゃんにあげるミルクすらない、というブラジル人失業者も少なくありません。非常に深刻な事態です。


 私達は「浜松ブラジル人緊急会議」という団体を立ち上げ、募金や支援を行っています。
 http://soshamamatsu.hamazo.tv/
地方や全国のマスコミにも何回も取り上げていただいています。
今日もTVに出ました。

 以前一新塾で講師をされたこともある、顔にあざのある方等の支援を行うNPO法人ユニークフェイス代表の石井政之さんも主要メンバーになっています。

 失業率80%、食べる物がない、学校に行けない、住む家がない、まるでアフリカかどこかの話のようですが、日本の話です。これはもう災害か戦争です。

 みなさんもぜひご協力ください。よろしくお願いします。


●以下、松井さんのプロフィールをご紹介させていただきます。

 松井さんは、浜松で地域在住外国人との交流を通したまちづくりをテーマに、地域で様々な活動を実践。

  一新塾第16期(2005年5月〜2006年5月)在籍中は、語学教師としての強みを活かした活動の発展形を模索、同志とともに切磋琢磨していました。
卒塾と同時に語学スクール起業のヒントを得に、南米へ“武者修行”も敢行!

(2006年10月に松井さんに執筆いただいた当時のメルマガ原稿です)

  昨年4月からは、地元のラジオ局FmHaro!の番組「アミザージ ハママツ」 内「ハローポルトガル語アカデミア アイラちゃんと学ぶ浜松で使えるジャ・ポル語」 コーナーの担当講師として毎週ラジオに出演。ブラジル人リスナーに日本語を、 日本人リスナーにポルトガル語を伝えています。

calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< January 2019 >>
selected entries
categories
archives
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM