『 東京〜泉崎村間220キロを行脚! 』

2000年に約68億円もの赤字を背負い、財政破綻した福島県泉崎村ですが、国の管理下に入る準用再建団体にならず、自力で財政再建する道を選択し、“自立の精神”と“突出したアイデア”で自治体再生の道に挑んできました。

先頭に立って旗を振ってきたのが、福島県泉崎村長の故小林日出男氏です。ちょうど 1年前の2009年8月5日に一新塾にてご講義をいただきました。 最大のピンチを再生のチャンスに変える小林村長に“主体的に生きる”とはどういうことなのか学ばせていただきました。

今年6月19日から26日まで1週間かけて、財政破綻した泉崎村を元気に
するため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚された一新塾第23期生の松澤章さん。

今回は、松澤さんご自身に、一連のドラマと新たな挑戦に向けての志を語っていただきました。ぜひ、ご一読ください!

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■■■■ 塾生活動レポート
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■■        『 東京〜泉崎村間220キロを行脚! 』
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■■■■■□                         松澤 章


一新塾23期OBの松澤章と申します。
現在34歳、栃木県に住むサラリーマンであり、二児の父です。
今年6月19日から26日にかけて、財政立て直しを進める福島県泉崎村を元気にするため、また昨年急死された故小林村長との約束を果たすため、東京日本橋から福島県泉崎村までの220キロを一人で歩き村のPRをしました。
一介のサラリーマンが何故そんなことをしたのか?その顛末をお話いたします。

●入塾の経緯

私が一新塾の門を叩いたのは2008年の秋でした。
それまでの私は東京の不動産ファンド会社で働いておりました。
業務で都心の大規模再開発を扱う一方、資本主義の原理だけでは地方の衰退を止めることが出来ず、地方を愛する自分の気持ちとの間に矛盾を感じていました。

そんな中、世界金融危機により勤務先が破綻。
破綻を機に「本当に自分のやりたいこと」を見つめなおし、「地元栃木をはじめ地方を元気にする」ことを一生のミッションにすることを決意しました。
そのヒントを探す為、一新塾に入塾した次第です。

私にとって一新塾での活動は、自分がうち砕かれることの連続でした。
ファンド運営という、いわば資本主義の尖兵であった私は、競争原理の中において自分の勝利だけを追求してきました。
しかしそれでは皆は幸せになれない。
一新塾での活動は、そんな当たり前の事すら鈍感になっていた私を目覚めさせてくれるものでした。

●小林村長との出会いと突然の訃報

泉崎村の小林村長とは昨年8月、一新塾での講義を通じて出会いました。福島県南部に位置する泉崎村は、バブル期の開発が原因で財政破綻してしまいます。通常は、夕張市のように国の管理下となるのが一般的です。
村長就任後、財政破綻の事実を知らされた小林村長は、村民みんなの尊厳のため、自らの手で借金返済することを選択しました。
手法としては村で宅地を造成し、そこに移住者や働き場所を誘致するというものでした。予算の全くない中、村をPRする為に村長が自らが泉崎村から東京までを行脚しました。

一新塾では塾生自らで講義進行の企画を考え、司会を担います。
私の妻が福島県の出身で、義理の妹が泉崎村在住です。
何かのご縁を感じ、私が小林村長の講義司会を担当いたしました。
講義の際、小林村長のお取り組みに感動した私は、頑張る泉崎村の皆様を応援したく、小林村長とは逆に東京から泉崎村を逆に行脚させていただくことをお願したところ、村長からは快諾いただきました。

それから1ヶ月ほど後、突然の訃報が届きました。
小林村長が亡くなられました。
任期途中の早過ぎる死でした。
行脚の計画も白紙となりました。

その年の年末、私は腰をすえて地方を元気にしたいという思いから、家族を連れて地元栃木に引越しました。
栃木での生活も落ち着くにつれ、私の心の中で亡くなられた村長との約束が大きくなってきました。
「地方を元気にする」事が私のミッションです。泉崎村を応援するため、
小林村長との約束を果たす為、東京から泉崎村の220キロを歩いてPRすること決意しました。

●行脚の道中

梅雨も開けぬ今年6月19日、一新塾の同志たちに見送られながら、私は
日本橋を出発しました。
肩に「福島県泉崎村を元気に!」と書いたタスキを掛けて、国道4号線を
ひたすら北に向かって歩きます。
東京を抜け、埼玉・栃木を通過、那須連山を超え一路福島県泉崎村を目指しました。

道中は新聞取材や地元ラジオ局へ出演し積極的に泉崎村をPRする他、自分でも情報発信を行ないました。ツイッターとGPSを活用、今私がどこを歩いているのか、なにを感じているのかをホームページにリアルタイムで公開しながら行脚しました。

わずか8日間でしたが、予想を超えた、非常に密度の濃い出会いばかりでした。全く面識のなかった多くの方々が、ツイッターや新聞を見て思いに共感していただき、応援に駆けつけてくれました。
一般の方だけでなく、大手スポーツ用品店や栃木県矢板市の市長にも直接ご声援をいただき、応援の品を頂きました。
最初は泉崎村を応援するつもりで歩いていましたが、逆に私の方が、多く
の方に支えていただいての行脚でした。道中、体は辛かったですが、多くの方の声援をいただき、本当に楽しく歩くことができました。そして、応援いただいた皆様にも楽しんでいただけたのではないかと思っています。

●新たな約束

東京を出発してから8日後の6月26日、無事ゴールの泉崎村役場に到着
しました。現村長を初め、約50人の方に迎えていただきました。
小林村長のお墓に道中の無事を報告した後、村長の奥様と対面いたしました。私が小林村長の思いを受け継ぎ、そして多くの方に賛同いただき、思いがさらに広がった事をお話すると、奥様は泣いて喜んでくださいました。その涙だけで、歩いた価値があったと思います。

村長のお墓に、新たな約束をしてきました。
「一生を通じ、地方に貢献する活動を継続すること。それに相応しい人間になること。」これからもどんどん、地方を元気にしてきたいと思います!
その際は是非!皆様と楽しむことができればと願っています。

東京日本橋から泉崎村までの220キロ踏破!

財政破綻した福島県泉崎村を元気にするため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚されていた一新塾第23期生の松澤章さんが、6月26日、見事に220キロを踏破され泉崎村に到着されました!

行脚のきっかけとなった故小林日出夫前泉崎村長の墓前に無事の到着をご報告されたとのことです。松澤さん、本当にお疲れさまでした!
(松澤さんの今回のチャレンジの経緯は末尾をご覧ください)

このたびの松澤さんのチャレンジが「読売新聞」「下野新聞」に掲載されて
いますので共有させていただきます。
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東京・泉崎間を踏破 前村長の遺志継ぎ(6月27日 読売新聞 福島版)
 
東京→福島・泉崎村220キロ行脚 亡き村長の意志継ぎ、移住呼びかけ(6月23日 下野新聞)
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卒塾生の松澤章さんがラジオ出演!(栃木放送ラジオ)

一新塾第23期「東京」本科卒の松澤章さんが、現在、財政破綻した福島県泉崎村を元気にするため、東京日本橋から泉崎村までの220キロを、泉崎村をPRしながら行脚中です。(6月19日に日本橋をスタート、6月26日到着予定)。

●行脚の予定
 国道4号線(旧4号)をひたすら北上
H22年6月19日AM10時 東京日本橋出発〜
       20日埼玉南部〜埼玉北部
       21日埼玉北部〜栃木県小山市
       22日栃木県小山市〜栃木県宇都宮市
       23日栃木県宇都宮市〜栃木県矢板市
       24日栃木県矢板市〜栃木県那須塩原市
       25日栃木県那須塩原市〜福島県白河市
H22年6月26日14時 泉崎村役場到着

21日午後、松澤さんと電話で話をしました。「日本橋〜泉崎村220km」と書かれたタスキをかけて現在、小山市を元気に行脚を続けています。

松澤さんは明日6月22日の14時〜の栃木放送ラジオ「みんなのラジオ」にラジオ出演されるとのことですので、取り急ぎ共有させていただきます。
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 6月22日(火)の14時〜 
 栃木放送ラジオ「みんなのラジオ」の番組内で15分程度
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松澤さんがご自身のブログに書かれている、このたびのチャレンジに挑むことになった経緯を共有させていただきます。

 〜〜以下、松澤さんのブログの引用です〜〜

【亡き村長との約束】
●泉崎村って? なんで歩くの?
 泉崎村は福島県の南部に位置する村です。
 バブル期び住宅団地や工業団地の造成を行ったが買い手がつかず、逆に莫大な借金を抱え財政破綻寸前の危機にありました。
 2000年2月、就任直後にそれを知ることとなった小林日出夫村長は事実を村民に公表。
 村民自らで借金返済をする道を選択します。小林村長自ら福島県から東京までの220km
 を歩く「財政再建行脚」を行い、村営の住宅団地の販売PRをしました。

 だが悲劇は突然訪れます。
 売り込みに奔走し、68億円あった借金を半分以下として、借金返済のめどがたってきた矢先、
 小林日出夫村長は、任期途中の2009年の9月18日に63歳という若さで急逝してしまいます。

●泉崎村との約束
 一新塾という私塾があります。NPO法人の政策学校であり、様々な講師を招いた講義を通して、官僚や政治家にすべてを任せるのではなく「主体性を持った市民」を輩出ことを目的としています。その一新塾が、小林日出夫村長との出会いの場となりました。

 いまでも残る小林日出夫村長のブログの記述
 http://blog.livedoor.jp/izumizaki/archives/51597688.html

 小林日出夫村長の辿った道のりを逆に歩き、泉崎村を応援をしたい。
 東京から泉崎村に歩いていって泉崎のよさを体験したい、様々な人に泉崎村を知ってもらい、元気になってほしいのです。
 泉崎村を心から応援するために歩きます。

 そして、twitterで色々とつぶやき、みんなとつながりながら220kmを旅したいと思います。
 そんな願いから「220km つながり行脚」と称して1週間かけ行脚を行います。

『 知立団地に思いを込めて 』

今回は愛知県の知立(ちりゅう)市を現場に、多文化共生のプロジェクト活動に邁進されている第25期「名古屋」地域科の田辺直人さんのメッセージをお届けいたします。
3月28日(日)には、田辺さんの呼びかけで、名古屋地域科塾生メンバーが知立団地に現場視察に行ってきました。自治会による粗大ごみ収集をボランティアで手伝う外国人の方や団地のスーパーで働く方へのヒアリング、自治会長さんとの懇談、知立団地で暮らすブラジル人家庭の訪問、知立市長とも懇談し、様々な生の声に触れさせていただきました。

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■■■■ 塾生活動レポート
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■■         『 知立団地に思いを込めて 』
■■       〜笑顔あふれるコミュニティ広場構想〜    
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■■■■              一新塾第25期「名古屋」地域科
■■■■■□                       田辺 直人


プロジェクト「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」の舞台となる知立団地。 愛知県の三河地方にある人口7万人程度の小都市・知立市。旧東海道の宿場町 として栄え、歴史と文化、伝統ある祭りが今もこの町の観光を支えています。 知立市が施行した今から40年前、日本の高度経済成長に呼応するかのように 整備されたのが、公団「知立団地」です。地元の重要産業である自動車関連企業への通勤にも便がいいと、多くの住民が入居し、およそ2500世帯、5000人が暮らし始めました。

現在、この知立団地では、住民の半数以上がブラジル人を始めとする外国人労働者となっています。日本人住民の高齢化・独居老人化が進むと、それに合わせるように10年ほど前から外国人が増え始めました。マイノリティからマジョリティへと勢力が変わり、生活習慣の違いによるマナーやモラルの低下、治安の悪化が課題となりました。

私は、ケーブルテレビというローカルメディアで報道活動をする中で知立団地の現状を知り、その姿を少しでも正確に伝えようと、10年前から取材を重ねてきました。一新塾でのプロジェクト立上げは、仕事から離れて一市民の立場となっても、なお関わって行くべき社会的テーマであると考え取り組んだものです。


●「強制」ではなく「共生」

知立団地は、長年の自治会活動によって、全国的にも成功した多文化共生社会を具体化しています。増え続ける外国人に対し、自治会は「強制」ではなく「共生」する術を探りました。習慣や文化の違いを理解し受け入れることで、外国人が主体的に自治会活動に目を向けてくれるように歩み寄ったのです。日本語の話せるブラジル人を自治会メンバーに入れ、外国人からの様々な相談・要望に答えてきました。毎年恒例の夏祭りは、盆踊りからサンバカーニバルに変えました。
就職に有利になるようにと日本語教室を開催し、毎晩多くのブラジル人が勉強に励みました。粗大ゴミの収集日には、外国人の若者たちが自主的に手伝いに出るようになりました。

自治会に決め手となる施策や計画が有ったわけではありません。目の前の現実に真正面から向き合うしかなかったのです。そうした体当たりの行動に外国人住民が共鳴し、知立団地に共生の芽が生まれたのです。


●知立団地が直面している課題

知立団地が今直面している課題は、自治会組織の高齢化です。団地から日本人の姿が減り、一方で独居老人が増えています。自治会長は70歳を超え、同様に自治会のメンバーも高齢化が進んでいます。言葉の壁、文化・習慣の壁を乗り越えてきた知立団地の住民ではありますが、リーダーシップを担う自治会の高齢化によって、せっかく育まれた共生の芽がこれからどのように育っていくのか心配になります。

知立団地は小さな国際都市です。多文化共生のよいモデルケースになっています。
しかし、その国際化も、団地周辺の住民たちから理解され歓迎されているわけではありません。一度低下したモラルや治安は、団地内に暮らす人たちが感じている以上に、周辺の住民に不安感と差別意識を植え付けてしまったのです。自治会の長年の努力によって芽生えた共生というコミュニティも、周辺住民の目には未だ正しく伝わっていないのです。


●「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」

「笑顔あふれるコミュニティ広場構想」は、団地の今を周辺住民に正しく伝え、日本人住民と外国人住民が、お互いを理解し合い前向きに共生していけるようサポートする活動です。「広場」とは団地の中心にある公園のことであり、人々が集う精神的な拠り所という意味でもあります。

団地で生まれた国際的なコミュニティは、団地周辺の住民を巻き込んでさらに大きなコミュニティを形成する可能性を持っています。その第一歩となるものが、団地に人を呼び込むきっかけ作りだと考えています。知立団地で育まれた共生のコミュニティを、国際交流や異文化交流の一環として活用し、誰もが気軽に団地に訪れるようになれば、外国人だけでなく高齢化が進む日本人住民とも触れ合い笑顔あふれる時間を共有できると思います。

夏祭りのサンバカーニバルは、最もブラジル文化を味わえるイベントとして 広くPRでき、スポーツイベントとしてサッカー大会を企画することもできます。 食文化を楽しめる屋台村を実施すれば多くの人が集まることでしょう。若者同士を結びつけるため、大学のゼミと連携することも可能です。

このように知立団地が日常的に人々の集まる交流広場になることで、自治会ばかりに依存しない主体的なコミュニティ形成が可能となるのです。


●私のプロジェクトが目指すもの

私のプロジェクトが目指すものは、団地の情報を周辺住民に伝えるメディアを創出することです。ツールは情報誌・Webサイト・Net放送など様々考えられ、外国人住民自ら情報発信できるようになることが理想です。行政の理解を得て市政だよりに記事を載せてもらうことも考えられます。

人々が集まり・出会い・学び・理解し合うことこそが、コミュニティ形成の
基本であり、その舞台となるのが知立団地なのです。
日本一小さな国際都市「知立団地」へようこそ!

『 明るい水産業を創る 』〜岡田浦漁港視察〜

ここ数年、私は毎月一回、名古屋・大阪・福岡にお伺いしています。そして、地域科の塾生の皆さんと顔を併せ、一回平均5〜6時間のプログラムで、講座・ワークショップ・コンサルティングをしています。

加えて、地域科では、塾生が持ち回りで企画・実行する現場視察を毎月一回実施しています。塾生自らがテーマを設定し「まちづくり」「商店街再生」「フリースクール」「障害者スポーツ」「漁港」など、12月からの3ヶ月で様々なテーマでの現場視察が実施されてきました。

今回は、昨年11月に一新塾第25期に入塾された「大阪」地域科の白川光弘さんの熱い現場視察体験記をお届けいたします。ぜひ、じっくりご覧ください。

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■■■■ 塾生活動レポート
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■■           『 明るい水産業を創る 』
■■             〜岡田浦漁港視察〜
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■■■■                一新塾第25期「大阪」地域科
■■■■■□                        白川 光弘


 水産を志し大学で学び、大阪市中央卸売市場の水産物卸売会社に就職した。
以来20年以上勤務し、良い時も悪い時も経験した。
 ここ3年程は、営業を離れているが、改めて業界を見渡したとき、地方の
規模漁業者の衰退、資源の減少が気になり始めた。
 一方では、魚離れが進んでいる。消費者の食生活の変化、魚の調理に起因する主婦の魚離れ、骨があることに対する抵抗感、などによって魚の消費は減少してきている。

 これまでの私は、会社の業務にかこつけて、業界の窮状には目を背けてきたが、生産と消費の両方の場面で、水産の衰退が進むのを目の当たりにして、自分が親しみ、今や飯の種とまでなった水産業が衰えていくのはたまらなかった。
 
 きれいで豊かな海を取り戻したい、そして豊かな海の恩恵を受け、漁業者が豊かな生活をできるようにしたい。
 今現在も中央卸売市場で働く私は、生産と消費の流通の中心点に存在し、生産の現場で起こっている事、消費の現場で起こっている事の両方を身近に感じる事ができる。
 こういう立場にいる私だからこそ、水産業の事を真剣に考え業界の仕組みや考え方を変えていく起点になりたい。これまで何もしてこなかった事への罪滅ぼしであり、自分の転換点である。そのころ一新塾を知り、1年以上悩んだ末、昨年11月に25期大阪地域科に入塾した。


●水産業界の現状

 農業、林業が抱える問題と同じ事が水産業でも起っている。収入の問題、高齢化による後継者の問題。そして「魚離れ」による消費の後退。米や野菜で起こっている事と同じだ。何か役に立てる事ができないか。頭の中をグルグル回っている思いを確認するため、現場視察を行った。自分の考えている事や、本やテレビで得た知識が正しいのか。


●早速、現場視察へ!

 昨年末、「漁港を見に行こう」と大阪地域科の同志に現場視察を提案した。興味を示してもらえるのか心配だったが、すぐに有志は集まった。現場は、関西空港を間近に望む岡田浦の漁港だ。

 当日は、朝10時から、漁協の職員の方、漁協青年部長、前青年部長の3名に漁協の現状や、大阪湾の資源状態を話していただいた。

●岡田浦漁協の現状

 現在、漁協の組合員は70名ほど、35〜45歳が多くまだまだ現役バリバリの漁業者が多い。若くて活気のある漁港なのだが将来については不安を持っていた。

「若い人は、ほとんど入ってこない。」
「自分の子供に後を継げとは言えない。」
「資源はどんどん減ってきている。」
「温暖化の影響か、獲れる時期や、量が変わってきた。」
「物価や経費が上がり、一方で魚の値段は下がり本当に大変だ。」

 漁業者の口をついて出るのは、漁業の将来に不安を感じている言葉が圧倒的に多い。事実、大阪湾の魚は年々減っており、昭和60年ごろ10万トンあった漁獲量が近年2万トンまで落ち込んでいる(魚種によっては10分の1)。
関西空港建設、湾岸の埋め立てにより魚の住む場所、産卵する場所が奪われ、海流の流れも変わり、豊かだった昔の海の面影はない。
やはり、漁業者は苦しんでいる。


●現場で知った新しい事

 反面、上手く行っている事もあった。日曜朝市だ。近隣の漁港でも行っているが、都市圏に近い事もあり毎週日曜の朝は、買い物客で賑わう。新鮮な大阪湾の魚が格安で手に入る。漁協は、漁業の収入の減少をいくらか補う事ができる。また、地引網や体験漁業も家族連れに人気らしい。漁業者たちは自分たちの手でできる事を始め、成功事例を積み重ねていた。なんだか、自分の出る幕はないのかと感じ始めた。


●理想の水産業を目指して

 本当に私にできる事はないのか。いやいや、そんなことはない。
 朝市、地引網、体験漁業、海鮮バーベキュー。みんな目の前の海の幸だ。やはり、資源の回復が欠かせない。豊かな海で魚を獲り生活してゆく、そして自然に子供たちが跡を継ぐ。若者たちが集い、新しい力となって漁港を盛り立てる、そういう風景が見られるような水産業を目指したい。
 水産業の未来のために、資源を回復させ、魚食の普及を図る事で収入の安定を目指せないものか。日本の沿岸漁業が元気になってこそ、水産業の未来はあると考えている。


●今後の私

 私は、魚食普及、食育の活動を漁業者と共に進めて行こうと考えている。そして販売価格の維持向上を目指し、漁業者の生活の安定を助けて行きたい。資源回復のため、漁業者と共に考え漁業者の声を行政に届ける役割を果たして行きたい。どちらもすぐに効果の見える事ではないが一新塾の同志の力を借りながら、進んで行こうと思う。

 そのためにも、まずは漁業者の実態を調べ生の声を聞いていきたい。
新しい販売のルートを開拓したい。大消費地大阪を前に地元ブランドを生かしていきたい。そして、資源回復のための活動をしていきたい。

 私がやりたいのは、消費者の魚離れへの挑戦であり、沿岸漁業を復活させることである。そして、生産者、消費者が共に豊かになる水産業を目指す。

 現場視察で「びっくりしてる。君たちの様な外の人が漁業の心配をして
くれているとは思わなかった」と言われたが、私たちの想いが伝わったのかもしれない。この想いを大事にして自分の原点にしたい。

一新塾講師にハットウ・オンパク理事の野上泰生氏!

1月27日(水)の講義は、
「別府から全国へ!“オンパク”で地域資源を掘り起こす」をテーマに
NPO法人ハットウ・オンパク理事の野上泰生氏にご講義いただきました。

『オンパク(別府八湯温泉博覧会)』は、別府市内に広がる8つの湯元全域でまちづくり活動から生まれたプログラムです。 地域の普通の人たちの関心や一芸を活用した多彩なミニ体験交流プログラムが、約1か月に渡って集中的に開催されます。
地域を活性化するだけでなく、地域リーダーとなる人材が育まれる「地域の苗床」とも言えるこのオンパクモデルが、今、全国各地に広がっています。

野上さんがまちづくりを始めた当初は、観光客を増やしたい、旅館のお客さんを増やしたいとの思いがあったが、まちづくりに没頭すると、そんなことどうでもよくなった。この意識の転換が、多くの人たちを巻き込む大きな求心力になったのだと思います。

「人は主役になると変わる!」
「合意形成がなくとも2〜3人集まれば自分のモデルをやってしまう」
とのお言葉は、一新塾で起こっていることと同じで大変共感いたしました。

そして、オンパクの持つ、苗床機能により、数々のソーシャルベンチャー
が続々と誕生していること。
そして、関係にアプローチして苗床機能を生み出すことの意義に加え、
コーディネーターがしっかり活躍できる環境を生み出すことの重要性を
学ばせていただきました。

『家族を救ったおかんのあったかご飯─実録 家族再生ものがたり』

一新塾第20期生で、「生命環境リサイクルプロジェクト」のリーダーとして活躍されてきました西田尚美さんがこのたび出版されました。

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 『家族を救ったおかんのあったかご飯─実録 家族再生ものがたり』
                 (西田尚美著・マガジンランド)
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 著者の西田尚美さんからのメッセージです。
「この本は、私が循環型社会を目指す動機になった家族の出来事を書いています。以前は、夫婦が離婚の危機にあり、家族がバラバラになりかけた事態を娘によって救われ気づかされたドキュメントです。それによって食の危険性や環境の悪化を目の辺りに感じ、見えない力で動かされたと言っても過言ではないと思います。本を出版するに当たって、娘の自尊心を傷つけるのではないかと悩みましたが、娘自身から、世の中の間違いに少しでも気づいてくれる人が居るならいいよ。と大きな愛情を貰いました。本の題名は、「家族を救ったおかんのあったかご飯」となっていますが、私にとっては娘に救われたとしか言えません。」


 私も、昨晩、一気に読ませていただきました。とても胸を揺さぶられました。一緒に暮らしていても家族のつながりが実感できない。居場所がない。都会の便利さによって、気づかぬうちに大切なものを失ってしまい、バラバラになってしまった家族の再生の心に響くノンフィクションの物語です。

これは、西田さんの家族だけの問題ではなく、現代を生きる多くの人たちがのまれる苦悩と葛藤をテーマにしていると思います。
そして、その解決のための大切な知恵を発信いただいています。
ぜひとも多くの方に読んでいただきたい一冊です。


●西田 尚美さんプロフィール
1960年8月18日生まれ。銀行員3年後、結婚。12年間、PTA活動を行い、元宇美小学校PTA副会長にもなる。同時に生け花の師範としてフラワー教室を開催し、フラワーデザイナーとしてフラワーショップ花MOMOも経営。その後、筑紫野市の「女性の翼」にてヨーロッパの環境・教育・福祉に刺激を受け、地域のコミュニケーションを活性化するため、NPO法人「よか隊」を立ち上げ。また、永年に亘り商工会活動を通じ、地元のお祭りやイベント活動にも積極的に参加し、宇美町商工会女性部の部長として地域の活性化のため東奔西走。

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『浜松ブラジル人緊急会議』 16期 松井一哲さん

浜松在住の一新塾第16期OBの松井一哲さんより、昨日、以下のメッセージをいただきました。松井さんは「浜松ブラジル人緊急会議」を立ち上げ奮闘されていらっしゃいます。
 
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  16期通信科の松井一哲です。

  先日、湯浅誠さんによる公開講座のお知らせをメルマガにて拝見しましたが、私の住んでいる浜松市の状況も悲惨です。

 浜松市は日系ブラジル人が日本一多い街ですが、自動車産業をはじめとする製造業で働くブラジル人の失業率は今月末には80%にも達すると言われています。

 TV等でも取り上げられましたが、住居がなくなって、今日食べる物もなく、赤ちゃんにあげるミルクすらない、というブラジル人失業者も少なくありません。非常に深刻な事態です。


 私達は「浜松ブラジル人緊急会議」という団体を立ち上げ、募金や支援を行っています。
 http://soshamamatsu.hamazo.tv/
地方や全国のマスコミにも何回も取り上げていただいています。
今日もTVに出ました。

 以前一新塾で講師をされたこともある、顔にあざのある方等の支援を行うNPO法人ユニークフェイス代表の石井政之さんも主要メンバーになっています。

 失業率80%、食べる物がない、学校に行けない、住む家がない、まるでアフリカかどこかの話のようですが、日本の話です。これはもう災害か戦争です。

 みなさんもぜひご協力ください。よろしくお願いします。


●以下、松井さんのプロフィールをご紹介させていただきます。

 松井さんは、浜松で地域在住外国人との交流を通したまちづくりをテーマに、地域で様々な活動を実践。

  一新塾第16期(2005年5月〜2006年5月)在籍中は、語学教師としての強みを活かした活動の発展形を模索、同志とともに切磋琢磨していました。
卒塾と同時に語学スクール起業のヒントを得に、南米へ“武者修行”も敢行!

(2006年10月に松井さんに執筆いただいた当時のメルマガ原稿です)

  昨年4月からは、地元のラジオ局FmHaro!の番組「アミザージ ハママツ」 内「ハローポルトガル語アカデミア アイラちゃんと学ぶ浜松で使えるジャ・ポル語」 コーナーの担当講師として毎週ラジオに出演。ブラジル人リスナーに日本語を、 日本人リスナーにポルトガル語を伝えています。

『 今こそ紙芝居で、より良い社会造り人創り 』

今回は紙芝居を通じて、社会変革に挑んでいる18期生の山口文子さんより、ほとばしる情熱溢れるメッセージをいただきました。

山口さんのご活躍は、新聞や雑誌でもご紹介されています。
http://www.isshinjuku.com/05jukusei/kiji_22_05_008.html
http://www.isshinjuku.com/05jukusei/kiji_22_05_007.html

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■■■■■ 塾生活動レポート
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■■■     『 今こそ紙芝居で、より良い社会造り人創り 』
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■■■■■■□            一新塾第18期 山口文子


  昨年の後半から今年にかけて、アメリカの株価の大暴落で
“百年に一度の経済危機″という一言では、語り尽くせない、人々の先行きの見えない、大変な時代になりました。

でも、皆さん少し変だとは思いませんか?
1929年、今から凡そ80年前に、アメリカから端を発した株価の大暴落で、確かに日本もその大きな大打撃を受けて、失業者が日本中に溢れ、その失業者の人々が、生きていく為に日銭を稼ぐ、飴や駄菓子を売る道具として、街頭紙芝居が生まれたのです。紙芝居は、人々が生きて行く上で、その英智を結集した結果、偶然に生まれた文化なのです。

 私が、何故今の時代が、80年前と比べて、おかしいと想ったかと言うと、当時の人々との価値観のずれが在るとは思いますが、現代の人々は、行政がなんとかしてくれる。政権が交代したら、景気が回復する希望が持てる。道路の財源を福祉や子育て支援に回してもらわないと、やっていけない。等々…
言い方がきついかも知れませんが、とにかく、自分達が団結して力を合わせるという努力をあまりしないで、政府がなんとかするのを待つ。
そのうち、景気が回復するのを待つ。政権が交代するのを待つ。
私の目から見ると、とても歯がゆいのです。

 そこで私は、他力本願的思考を払拭して、自分なりに出来る形で、人々の気持ちを喚起したいのです。派遣切り、不当な解雇、正社員の首切り。こんな世の中がまかり通って、どうしてみんな黙っておられるのですか?


● 紙芝居で、世の中を本気で変革したい

 私は今から凡そ80年前に、失業者を救済するべきツールとして、日本で生まれた紙芝居で、世の中を本気で変革したいと考えている、大馬鹿者です。
でも、誰かがするのを待つのなら、自分で行動に移すことで、少しでも、
人々が生き易くなってもらえるのなら、やらせて戴く価値は在ると想います。

  それでは、紙芝居でどのように、今の世の中を変革していこうと考えて
いるかと申しますと、それは、一言で言えば、教育の改革に外なりません。
 教育の荒廃が、現代社会の格差を産み、子供達に夢や希望が抱けない世の中になり、自分さえ良ければ構わないという道徳心が欠落し、心優しい人々は、自分自身を信じることを諦め、毎年、年間3万人以上の自殺者が後を絶たず、親は子を殺し子は親を殺め、テレビゲームやバソコン等の擬似体験のみでしか、思考をすることが出来ず、現実と仮想の世界の区別が出来ず、人は死んだら、また生き返ると、本気で信じる。従って、命の尊さと生きる喜びを実感出来ず、人間同士が生で触れ合う機会がなくなって来て、コミュニケーションを上手く図れなくなり、孤立化してしまう。

 私は、紙芝居を普及させて戴くことで、これら、現代社会が抱えている
問題を、少しでもなくすことが出来れば、こんな嬉しいことはないと想って
おります。

 生身の人間が、肉声で語る、優れた紙芝居を、顔を知らない人同士が観ても、全く自然体で作品世界を通じて、共感出来る。紙芝居には、何時でも、誰でも、何処でも、簡単にそんな素晴らしい居場所造りと、共感を味わい、想像力を養い、物事の善悪を、みんなで観ることで培う、素晴らしい魅力を持っていると、私は想います。


●「青空みかん」として奮闘中!

  私のこれからの活動の予定は、どうか「青空みかん」(私の紙芝居の芸名)で、検索下さいませ。主な予定を挙げますと。

 3月 1日(日) 徳島市で、紙芝居ボランティア「おしゃべりくまさん」
          の紙の実演講座
  3月14日(土)大阪市立住吉人権文化センター館祭り
  5月 9日(土)紙芝居の一日公開講座 大阪市立難波市民学習センタ
          講師 童心社会長 酒井京子氏
  5月31日(日)共生共走マラソン会場 大阪市立鶴見緑地公園

  その他、地域の活動と致しまして、私の住いする、大阪市東住吉区の街造りグループ「東住吉アクションプラン」独自の創作紙芝居の製作のお手伝いをさせて戴いております。

 また、大阪市の生涯学習インストラクターの人材バンク登録者として、
要請が在れば、紙芝居の実演や講座を務めさせて戴いております。また、紙芝居を文化として広げて戴ける仲間つくりとして「紙芝居大好きの会」を二年前に発足致しました。

  青空みかんの紙芝居教室も、紙芝居を文化として確立させていく為に、
自宅近くに昨年、開校致しました。今年の3月からは、より多くの実演者が
増えればと考え、大阪市立難波市民学習センターにて、基本的に第三日曜日の午後に開講させて戴くこととなりました。

 いずれにしろ、私の主体的市民としての活動は、誰かがやってくれたり、
政権が交代するのを待つのではなく、紙芝居という、今一番古くて新しい
メディアを遣って、理論と実践を駆使して、人々の心に喚起を呼び起こし
たいと想っております。何故なら、紙芝居は全ての問題をオールクリア
出来る、素晴らしい特性と可能性を秘めているツールであると、私は疑い
のない、信念を持っているからです。

 しかしながら、何ごとも地道な積み重ねを積んでいくことで、大願を成就
出来ると言うことを肝に命じ、これからも、あせらず、慌てず、諦めず、
そしてくさらず、自分の使命を果たして参りたいと想っております。





団塊世代から見た “世代間断絶”

一新塾には、20代から60代まで、ビジネスマン、主婦、学生、フリーター、経営者、議員、官僚、ジャーナリスト、デザイナー、など様々なバックグラウンドの方が結集します。

最近は、舞台をビジネスから地域に移し変えて「第二の人生」を踏み見出そうという団塊世代の方々も増えてまいりました。
そして、世代を超えて同志と共に、協働してプロジェクトを立ち上げています。この世代を超えたコミュニケーションこそが、プロジェクト推進の大きな原動力となっています。

しかし、世の中では、“世代間断絶”という言葉をよく耳にします。これが最近では家族の中にも侵入してきています。それによって、最も確かで最も信頼の置けるはずであった家族の絆ですら危ういものとなってきています。

堺屋太一氏は、団塊世代論で“世代間断絶”を以下のように考察されています。

「 団塊世代の両親は大正世代。ようやく日本が工業化したとはいうものの、まだまだモノ不足で人余りで、生活に腐心した時代。
当然、モノを大事に長く使う。お袋の味、家庭医療、近所・親類付き合い
など教えを乞うことがたくさんで「生活の知恵」は誇りであった。そして、
貧しい物財と安価な人力をどう使うかのソフトウェアと地域コミュニティや親類縁者とどう付き合うかのヒューマンウェアが代々引き継がれていた。

また、姑は7分の親切と3分の意地悪が普通であった。
ところが、団塊世代が家庭を持つ70年代には、家庭電化で家事は自動化、衣服は使い捨て、食事はインスタント、買い物はスーパー。もう、姑のもつ「生活の知恵」は要らない。団地やマンション暮らしには近所づきあいもない。故郷を出た人は親類と顔を合わせる必要ない。
仕事の上でも、サラリーマンなら親の世代に相談する必要もなければ、
その意味もない。子どもは塾通いで、祖父母が躾ける間もない。

その一方、舅姑は、新しい生活に必要な知識と技能に乏しい。
自動車の運転もできなければ、電気製品の修理も出来ない。
パソコンも出来ない。使い捨てはもったいないと思うから家のなかは片付かない。これでは、舅や姑の権威が保たないのも当然。この結果、団塊世代は親とは別居。職場以外には帰属意識も相談相手も持たない職縁社会の核家族となった。団塊世代も気がつけば、子どもたちに自分が伝えることができることが何もないことに気づく。それが、現代である!」


親との関係を切ってしまった団塊世代。
その結果、思いもよらず、子どもとの絆も切れてしまいます。
もしかしたら、この現象は、日本の歴史初まって以来の出来事ではないのでしょうか。

これまで、企業戦士として、組織のミッションのために人生を賭して突っ走ってきた団塊世代が選択したライフスタイルがもたらした思わぬ副作用。
そして、卒サラして自由になった今、団塊世代の方が「第二の人生」を、
今度はどういったライフスタイルにデザインし直すのか。

日本の将来を左右する重要な鍵のひとつではないでしょうか。


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